江戸時代後期の儒者。
寛政11年6月21日生まれ。
名は逸。字(あざな)は子明。通称は希一。別号に海紅園。
丹後(京都府)田辺藩士。
江戸で古賀精里(せいり),古賀侗庵(どうあん)にまなぶ。
文政9年、漂着した清国船の清人と筆談し,「得泰船筆語」をあらわし有名になる。
安政4年家老となり,藩政改革に尽力した。
安政6年7月21日死去。61歳。
著作に「海紅園小稿」など。
2012年05月22日
2012年05月14日
2011年12月09日
村上鳳湖 Murakami Hohko (1879-1955)
明治12年、愛媛県生まれ。
本名は利右衛門。別号は白雲道人。
松本楓湖、川合玉堂に学ぶ。
明治32年日本絵画協会展に「齋藤實盛決死」を初出品、その後も同展に「熊谷父子出陣」、「小山田高家援義貞」などを出品し、二等褒状等受賞多数。
40年第1回文展入選、以後も連続入選を重ねて活躍した。
昭和31年2月10日没。77歳。
本名は利右衛門。別号は白雲道人。
松本楓湖、川合玉堂に学ぶ。
明治32年日本絵画協会展に「齋藤實盛決死」を初出品、その後も同展に「熊谷父子出陣」、「小山田高家援義貞」などを出品し、二等褒状等受賞多数。
40年第1回文展入選、以後も連続入選を重ねて活躍した。
昭和31年2月10日没。77歳。
2011年10月24日
2011年08月23日
2011年02月24日
伊藤介亭 Ito Kaitei (1687 - 1772)
伊藤仁斎の3男。名は長衡、字は正蔵、別号に謙々斎。
父や異母兄の伊藤東涯に古義学を学ぶ。
叔父伊藤進斎の家を継ぐ。
享保11年、摂津高槻藩藩主・永井直期に招かれ儒官となる。
書にも優れた。
京都出身。
著作に『介亭詩稿』など。
(出典 デジタル版 日本人名大辞典+Plus)
父や異母兄の伊藤東涯に古義学を学ぶ。
叔父伊藤進斎の家を継ぐ。
享保11年、摂津高槻藩藩主・永井直期に招かれ儒官となる。
書にも優れた。
京都出身。
著作に『介亭詩稿』など。
(出典 デジタル版 日本人名大辞典+Plus)
2011年02月11日
石川秀穂 Ishikawa Shusui (1894 - 1956)
秋田県大館市弁天町生まれ。
富次郎の長男で本名新明。
父・富次郎は、狩野派の石川漁舟(初め北雲)の号で知られた。
富次郎は秋田市の小室怡々(いい)斎の門人というから、寺崎広業と同門ということになる。
父を画家に持った秀穂は、十七歳で角館町出身の西宮礼和(当時東京)に就いて四条派を学び、のち歴史画の高橋広湖に入門している。
広湖は尾竹竹坡とともに、巽画会の重鎮として知られ、土崎の荒井広成の師でもあった。
広湖の次に花鳥山水の池上秀畝の伝神画塾にはいって学ぶ。
気骨のある人で、中国行きのとき、東京駅まで兄送った門人たちが、師を後列において、万歳をしたところ、秀穂は慣慨し、無礼ではないかと音頭取りの人に食ってかかったという話もある。
酒、たばこ、勝負事は大嫌いという硬骨漢。
戦時中、大館市部垂町に疎開し、そこで亡くなった。
(出典 秋田人名大辞典)
富次郎の長男で本名新明。
父・富次郎は、狩野派の石川漁舟(初め北雲)の号で知られた。
富次郎は秋田市の小室怡々(いい)斎の門人というから、寺崎広業と同門ということになる。
父を画家に持った秀穂は、十七歳で角館町出身の西宮礼和(当時東京)に就いて四条派を学び、のち歴史画の高橋広湖に入門している。
広湖は尾竹竹坡とともに、巽画会の重鎮として知られ、土崎の荒井広成の師でもあった。
広湖の次に花鳥山水の池上秀畝の伝神画塾にはいって学ぶ。
気骨のある人で、中国行きのとき、東京駅まで兄送った門人たちが、師を後列において、万歳をしたところ、秀穂は慣慨し、無礼ではないかと音頭取りの人に食ってかかったという話もある。
酒、たばこ、勝負事は大嫌いという硬骨漢。
戦時中、大館市部垂町に疎開し、そこで亡くなった。
(出典 秋田人名大辞典)
2011年01月18日
阿南竹坨 Anan Chikuda (1864 - 1928)
本名は衝、号は竹坨、酔竹山人、臨泉、二雄、龍洞と称する。
旧姓波多野。
豊後竹田(大分県竹田市)生まれ。
長崎に来て、守山湘*【馬+風】(1818〜 1901)に学んだ。
八幡町に住み、明治・大正期の長崎の南画壇で活躍したが、後に兵庫に移り、さらに名古屋、東京に転居して、同地で昭和3年11月5日歿した。
長崎では、長崎市役所に勤めていたという。
(出典 長崎県美術館)
旧姓波多野。
豊後竹田(大分県竹田市)生まれ。
長崎に来て、守山湘*【馬+風】(1818〜 1901)に学んだ。
八幡町に住み、明治・大正期の長崎の南画壇で活躍したが、後に兵庫に移り、さらに名古屋、東京に転居して、同地で昭和3年11月5日歿した。
長崎では、長崎市役所に勤めていたという。
(出典 長崎県美術館)
2011年01月13日
塩川文麟 Shiokawa Bunrin (1808 - 1877)
幕末明治の画家。京都の人。
字は士温,号は雲章,別号は可竹斎,竹斎,泉声など。
通称は図書。
幼くして父母を失い,父が仕えていた安井門跡(蓮華光院)の侍臣となる。
門主のすすめで岡本豊彦に入門。山水画を得意とした。
豊彦宅を訪れた呉春が文麟の画をみて,激賞したという。
天保2(1831)年の『画乗要略』には,豊彦の弟子としてただひとり文麟の名が挙げられている。安政の御所造営(1855)に参加,新内裏に襖絵を製作した。
明治1(1868)年画家の親睦団体である如雲社を主宰。
京都画壇における絶対的指導者となった。
教育者としてもすぐれ,近代京都画壇の育成に貢献した。
幸野楳嶺以下多くの俊英を門下から輩出させた。
77歳で没し,京都の一心院に葬られる。
(出典 朝日日本歴史人物事典)
字は士温,号は雲章,別号は可竹斎,竹斎,泉声など。
通称は図書。
幼くして父母を失い,父が仕えていた安井門跡(蓮華光院)の侍臣となる。
門主のすすめで岡本豊彦に入門。山水画を得意とした。
豊彦宅を訪れた呉春が文麟の画をみて,激賞したという。
天保2(1831)年の『画乗要略』には,豊彦の弟子としてただひとり文麟の名が挙げられている。安政の御所造営(1855)に参加,新内裏に襖絵を製作した。
明治1(1868)年画家の親睦団体である如雲社を主宰。
京都画壇における絶対的指導者となった。
教育者としてもすぐれ,近代京都画壇の育成に貢献した。
幸野楳嶺以下多くの俊英を門下から輩出させた。
77歳で没し,京都の一心院に葬られる。
(出典 朝日日本歴史人物事典)

